スパイ問題の先(防諜問題)

日本という国家が、いまどれほど危うい場所に立たされているか。 そのことに気づいている人は、まだ多くはないのかもしれません。

それは確実に進んでいます。 音もなく、誰にも気づかれることもなく、長い年月をかけて築かれてきた日本の力が、 いま、静かに、確実に、外から吸い上げられ、改変され、かたちを変えて戻ってきています。

その流れは、目に見える戦争や、銃声や、爆撃音を伴うものではありません。 かつての侵略以上に根深く、根こそぎ国家の骨を奪うものであるという意味で、 この新しい「戦い」は、間違いなく日本の独立を揺るがしています。 私たちは、その現実に、これまであまりにも無防備すぎたのではないでしょうか。

この国が戦後70年以上かけて築いてきた知識、研究成果、産業技術、文化資源。 それらは、一部の権力や企業が築いたものではありません。 国民一人ひとりが、家計を切り詰め、生活を抑え、 家族の時間を削りながら働き、学び、投じてきた人生そのものが礎になっているのです。

その努力の果てに生まれた数多の価値が、 音もなく外へと流れ、他国の枠組みに組み直され、 数年、あるいは十数年という時間をかけて、 まるで最初から他国の知見であるかのような顔で、この国へと戻ってくる。 日本国民は、それを疑問も抱かずに受け取り、購入し、消費し、結果として外貨獲得に協力してしまっているのです。

30年、日本は変わっていない。 そう語られることがあります。 確かに、研究開発費や防衛予算など、国家の中長期戦略にかかる投資の多くが、 諸外国と比べて大きく増えてこなかったという事実はあります。 むしろ横ばいで推移し、民間の現場が知恵と工夫で補ってきたというのが実情です。

私は、それをもって「変わらなかった国」と言い切ることに、どうしても違和感を覚えます。 この国は、変わらなかったのではありません。 変えようとした力が、内外の圧力や制度的欠陥によって、 次々と奪われてきたという歴史こそが、30年という停滞の正体だったのではないでしょうか。

改革の芽は、ことごとく潰されました。 制度設計は、中途半端なまま止まり、外資は戦略的に人材と技術を取り込み、 国はそれに「市場の自由」という言葉で背を向けました。 その積み重ねの中で、「変えようとした者」が去り、「変える力」そのものがこの国から消えていったのです。

今、情報という新たな戦場において、私たちは再び問われています。 「国家を守るとは何か」という問いに、私たちはどう答えるのでしょうか。

国家を守るということは、何も銃を持つことだけではありません。 戦車や戦闘機を並べることだけが防衛ではありません。 技術を、知識を、情報を、未来を守ること。 それもまた、確実に「国防」なのです。

簡単に情報を渡してはならない。 国家の根幹に関わる情報や技術には、重みがあり、責任があり、覚悟がある。 だからこそ、流出させた者への相応の処罰が必要であり、 軽率に扱った者が職を失い、人生を懸けて責任を問われるような、 そうした“緊張”が、この国には必要なのです。

今の日本には、それがない。 情報は出ていき、誰も処罰されず、組織も崩れたまま。 それで、果たして国を守っていると胸を張れるのか。 我々はその問いに対して、真っ向から向き合う時期に来ていると感じています。

近年、ようやくセキュリティークリアランス制度、スパイ防止法の議論が出始めました。 それは前進かもしれません。 私たちが本当に考えなければならないのは、その「先」であります。 制度が形になったとき、それを誰が運用するのか、誰が現場で動くのか、どの組織が取り締まり、どの機関が処罰を執行するのか。 その肝心な現場の設計すら決めないまま、制度だけを論じても、現実には一歩も動かないのではありませんか。

現在の日本には、情報保全に関わる機関として、公安警察のほかに、公安調査庁、防衛省情報本部、内閣情報調査室などが存在しています。 しかし防衛省情報本部の任務は主に通信傍受や電波情報収集といった技術的分野に限られており、人的諜報への対応機能はほとんど存在しません。 また、内閣情報調査室は政策支援的な分析機能に偏っており、現場での諜報防止活動には乏しいという構造的問題を抱えています。

逮捕や拘束の権限を持つのは警察だけであり、実際の摘発は警察、特に公安部門に依存しているのが現状です。そのため、仮にスパイ行為が発覚したとしても、逮捕後は勾留期間を経て不起訴となる例が多く、結果として国外逃亡が常態化しています。仮に起訴された場合であっても、多くは執行猶予付きの判決となり、重大な国家的損失をもたらした外国の工作員であっても、あくまで日本国民と同じ刑法の枠内で、一般刑事事件と同様に処理されているのが実態です。情報の種類や国家機密の重大性に関係なく、刑事司法上の扱いに違いがないという現状は、果たして主権国家のあるべき姿と言えるのでしょうか。

日本国民に対しては厳格な監視や法的制約が課されている一方で、外資や外国人工作員に対しては、制度上も運用上もほとんど無防備に近いまま放置されてきたのは、極めて不自然であり、主権国家として看過できない矛盾です。

日本の情報機関は互いに独立したまま、統一的な連携体制を構築する動きも見られず、情報は各省庁で分断され、共有されることなく埋もれています。 このままでは、国家の中枢に深く関わる情報が、誰にも把握されず、誰にも守られずに失われていく未来は免れません。

国家の存立に関わる情報に対して、より一体的で機能的な統治体制と実働機関の整備が急務であることは、もはや疑いようがないはずです。

アメリカにはCIA(中央情報局)、NSA(国家安全保障局)、FBI(連邦捜査局)という機関があり、イギリスにはMI5(保安局)とMI6(秘密情報部)があり、フランスにはDGSI(国内治安総局)、イスラエルにはモサド(諜報特務庁)が存在します。 ロシアにはFSB(連邦保安庁)とGRU(参謀本部情報総局)、中国には国家安全部が、韓国には国家情報院が、北朝鮮ですら偵察総局、国家保衛省、朝鮮労働党統一戦線部という三つの情報・工作機関を有しています。

それぞれの国が、自国の情報を守るために、 予算と人材と訓練と制度を整え、 情報戦を「戦争」であると捉えて本気で備えているのです。 彼らは情報を、国家の神経であり、国土と同じように不可侵のものと考えているのです。

それに対して日本はどうでしょうか。 法律が成立すれば、すべてが守られるかのように思っていないでしょうか。 制度を並べれば、それで終わったかのような空気に包まれてはいないでしょうか。

制度があっても、それを動かす人材と組織がなければ、何も変わりません。 実行力を欠いた法は飾りにすぎません。 守る意志のない制度は、最初から形骸にすぎません。

情報が奪われた時、これまでの日本はどう対応してきたでしょうか。 不起訴。処分保留。国外逃亡。報道すらされないまま、損失は闇に沈んでいきました。 何が奪われたのか。誰が関わったのか。どれほどの損害だったのか。 そうしたことは誰にも伝えられないまま、技術だけが二度と戻らぬかたちで消えていきました。

金で済ませたのは誰か。 情報を譲ってきたのは誰か。 黙っていたのは誰か。 今、この事実に目を向けていないのは誰か。 この問いを、いまここに生きている私たちが、誰かのせいにせず、真剣に考えねばなりません。

私たちが守らなければ、誰がこの国を守るのでしょうか。 技術が奪われ、人が抜かれ、知見が吸い出され、 気がついたときには、もうすでに何も残っていなかったということにならぬように。 そのために、法を整えるだけでなく、それを誰が運用するのか。 どういう組織が必要なのか。それを国民が理解して支える意志があるのかを、問い直すべき時です。

私は、この話を聞いたあなたにお願いしたい。 この問題を、身近な誰かと話してみて下さい。 友人知人、家庭や職場、地域で。 「本当に日本の情報は守られているのか」「警察で良いのか」 「誰が動くべきなのか」「このままでいいのか」 その問いを、あなた自身の口で発してほしい。その先に、何を新たに構築すべきか、どのような仕組みがこの国に本当に必要なのか、私たち自身がどのように関わっていくべきなのか、深く考えてみてほしい。

国家とは、仕組みではなく、意志によって成り立つものです。 国家の意思は、目を覚ました国民の声からしか生まれません。 気づいた者から語り始めてください。 その声が、この国を守る盾になると、我々は信じ、警笛の一環とし、この話をさせていただきました。