日本国民の食と自由を奪う社会主義的統制への警鐘
現在、我が国では「米」をめぐる政策が静かに、しかし確実に国民の誇りと生活基盤を侵食している。これは単なる農業政策の失敗ではなく、国家の構造が国民第一を見失い、社会主義的な統制構造へと歩みを進めている証である。
農林水産省の公開資料によれば、令和4年9月時点の全銘柄平均価格は60キログラムあたり13,961円、すなわち5キログラムあたりおよそ1,163円である。しかし今、国家が保有する備蓄米が、古米、古古米、果ては古古古米に至るまで、加工用あるいは飼料用という名目で低価格にて処分され、それが「国産だから安全」という欺瞞のもと、食用として国民に押しつけられようとしている現実がある。
さらに問題なのは、これらの備蓄米が国民の税金によって購入されたものであるにもかかわらず、放出の際には一般商品として販売され、再び消費税などの税が課されているという事実である。これはまさに二重取りの構造であり、国家が一度徴収した税金で購入したものを、国民に再び売りつけるという非道な構造が形成されている。
令和7年5月、小泉進次郎農林水産大臣が政府備蓄米30万トンの放出を表明した。すでに前任の大臣の時点で同量の30万トンが放出されており、残る30万トンまでもが市場に流された場合、日本はついに米の輸入依存に向かうことになる。国民の主食である米が、もはや国内で安定して確保できなくなり、輸入に頼らざるを得ない未来が現実のものとなるのだ。
この構造の背景には、アメリカとの経済交渉、とりわけ2017年以降のトランプ政権下におけるFTA(自由貿易協定)を巡る圧力がある。アメリカは日本の農産物市場に対して再三にわたり開放を要求し、備蓄米制度の縮小や関税の緩和を強く求めてきた。実際、トランプ政権は日本側に対し、米の関税枠拡大を条件に貿易交渉を進め、農業保護政策を貿易障壁とみなしてきた経緯がある。
このような対米譲歩の積み重ねが、現在の備蓄米大量放出という政策に繋がっている。そしてこれは単なる在庫処分や価格調整ではなく、日本の農業自立を意図的に崩すための一環である可能性を考慮すべきである。
平成5年、冷害による大凶作が全国を襲い、いわゆる平成の米騒動が発生した。当時、政府はタイ米やカリフォルニア米を緊急輸入し、全国の国民に供給した。確かに初めは風味の違いに戸惑いが生じたが、最終的には「やはり日本の米こそが一番だ」という声が国民から上がり、日本の食文化を守り抜いたという実績がある。
にもかかわらず、現在の政府は新米を海外へ供出し、国内の国民には古米や古古米を「安価な消費者義務」として与えようとしている。このような施策が定着し、「これが当たり前」となるならば、国民は国家の言うことに従うほかなく、結果として社会主義的な支配構造が完成してしまう。上質な米は他国に送られ、国民には口にすべきでない低品質米が並ぶようになるのである。
このような構造の中で、もし異を唱えようとすれば、「反社会的」との烙印を押され、社会的に孤立させられ、生活基盤をも奪われかねない。メディアは国家の意向に沿った報道を繰り返し、反対意見や真実の情報は広まることなく、国民の目と耳は塞がれてしまう。このようにして国民の意思は制度や空気、国家権力によって封じ込められ、自主的な選択が奪われている現実が進行しているのだ。
さらに、この事態の根底には、戦後のGHQ占領政策がある。GHQは日本の稲作自給体制を崩し、小麦中心の食生活へと誘導することを目的として、減反政策や学校給食へのパンの導入、小麦輸入の推奨などを推し進めた。これは、日本が米によって自給自足できる独立国家であることを脅威と見たアメリカによる戦略的政策であった。
昭和48年、第一次オイルショックの際、日本は自給率100パーセントの米により、他国のようにアメリカからの輸入に頼ることなく乗り越えた。冷戦下のソビエト連邦ですらアメリカから小麦を輸入していた時代に、日本は唯一、独立した食料供給体制を維持していたのである。
この誇りある体制が今、崩されようとしている。米という国民の命の糧が、国家の利権と対外交渉の材料として扱われ、国民にはその残滓が与えられるという現実を、我々は直視しなければならない。
国民一人ひとりがこの歪んだ構造を認識し、自らの声を取り戻すことが急務である。今こそ、国家の枠組みに強制されることなく、誇りある日本の食と文化を守り抜くために立ち上がるべき時である。真の民主主義とは、選挙制度があることではない。国民が自らの意思で判断し、生活を選び取ることのできる自由と誇りを保つことである。